安冨歩『原発危機と「東大話法」』

 本書には「議論のルール」が書かれている。
 一見、原発問題を扱った本に見えて(あるいは、原発問題を扱った本だからこそ)やはりコミュニケーション論であることが分かる。私は本書を原発問題の面ではなく、コミュニケーション論として見てゆきたいと思う。
 なお、安冨歩「ハラスメントは連鎖する」 - イマココ日記
 を先に読まないと理解しづらいことをことわる。
 
 本書の主張は「コミュニケーションが正常に行われていれば、こんな事態にはならなかったはず」というものである。
「ハラスメントは連鎖する」においてコミュニケーションの異常状態(ハラスメント)と思考停止との関連性を指摘した著者は、思考停止が暴走を生み、ひいてはこのような自体を引き起こした原因であるとする。それは「たられば」であるかぎり、検証はもちろん不可能である。しかし、コミュニケーションをとれないことの恐ろしさと、そこから出てくる無力感を感じたことのある人ならば、この主張にある程度の説得力を感じるものと思う。

 一方で、私は自然な思考停止状態というモノもあるのではないかと思う。いちいち考えていたら、キリがないようなことも確かにある。原発問題に関わる人々の言論の検討に紙幅を割きすぎ、「ハラスメントによる思考停止」と「自然な思考停止」を区別するかの検討がなされていないことが、本書の欠点だと私は思う。

「東大話法」とはいわば、詭弁強弁暴論の類を東大と関連付けたネーミングである。本書の冒頭には20の「詭弁・強弁の技法」が掲げられている(つい、悪用してみたくなる欲求を感じてしまうのは私だけ?)。
 本書では、原発推進派がこの「東大話法」に支配されていたことが「暴走」の原因であるとされる。
 ただし、この「東大話法」は東大にだけあるものではなく、おそらくコミュニケーションのあるところならば、どのような集団でも存在する。上記のような原発推進派の暴走の検討という趣旨が強く出ているため忘れてしまいそうになるが、脱原発・反原発派にもこの種の、無理に自分の仲間に引き入れようとする詭弁強弁の使い手はいくらでもいる。実際、「ハラスメントは連鎖する」にも、ハラスメントとの戦いを強要することは単なるハラスメントだ、とある。そういう場合は、たとえ「立場」が同じでも離れたほうがよいということも、本書の論理的帰結となるはずなのだから、触れて欲しかった。
 
 
 
「東大話法」の一覧を見ていると、「コレどこかで見たことがあるな」という感じがしたのだが、どうやら 永井均「転校生とブラックジャック」第7章談話室 に出てくる「哲学的議論のための要諦」と似ている。というか両者はまさに鏡写しの関係にある。
 
 ググったら、引用に調度良いエントリーが出てきたので、以下にリンクを示す。
転校生とブラックジャック - にっき。
 
 安冨さんがウィトゲンシュタインを引用して「語り得ぬもの」と設定し、(なぜか)直接的に語ることを避けた内容が、ここには簡潔に示されている。
 とはいえ正直、安冨さんにもこのぐらいの文章はかけたのではないかと私は思う。ここに書かれていることは、安冨さんが「ハラスメントは連鎖する」にて「エンターテイメント」「天使」と呼んだあり方と、とても良く似ているからである。
「エンターテイメント」とはいわば「正しいコミュニケーション」=「相互に学習が円滑に行われている状態」であり、当事者の立場から見れば「相手の学習を喚起するコミュニケーション」であり、「受容と提示によるコミュニケーション」である。
 これはまさしく、

「哲学的議論は、あくまでも真理の探求のための手段であり、『共同探求』の場でる。」
「哲学的議論をする者は、真理を求めてアイデアを出し合うのであって、相手の考えを論破して自分の考えを相手に認めさせるための「討論」をするのではない。(哲学的議論は決して「白熱」させてはならない。)」
「議論の場で問題に決着をつけようとしてはならない。議論は、その問題について後で(ひとりで)考えるための単なる素材にすぎない。」

 という要諦と合致する。
 
「エンターテイメント」を描写できる力がおそらくありながら、安冨さんが今回「思考停止状態」の記述に終始し、「エンターテイメント」の記述を強く打ち出さなかったことは非常に残念なことだと思う。全体として池田信夫さんや香山リカさんへの批判が目立ちすぎてしまい、読後そちらの印象が強すぎて、他の部分がボケてしまうように思った。「ハラスメントは連鎖する」では、もうしつこいぐらい同じ概念を繰り返し説明しなおしていたのになぁ。
 
 
 
 ところで、「議論のルールを定める」とは何をすることなのか?
「議論のルールを定める」というのは難しい問題だ。ソレを定めることによって、議論の流れがある程度方向づけされてしまうからである。いわゆる「言論」は、権力闘争を含んだ(場合によってはそれしかない)議論といえるが、実は「議論のルールを定める」ことは既に「言論ゲーム」の中にあり、権力闘争の中にあるのだ。
 
「言論ゲーム」を通常のゲームと比較してみよう。例としてもう一度将棋を使う。
 ある一手が上手か下手か、ルール違反かどうかはルールによって決められている。ルール違反かどうか自体がルールによって決められている、ということは当たり前ではあるが、普通は意識されないことであり、それに疑問を持たないことでルールが共有され、ルールを共有することが将棋を指すための条件である。
 だが「言論ゲーム」は言論してゆく中でルールを変化させることが出来るゲームなのである。一つ一つの議論の意味も、「〇〇論争とは何だったのか」という言論によって定められてゆく。「言論ゲーム」には「外」がないのだ。
 科学がこの「外」にあたるものとも思えるが、科学には「まだわかっていないこと」「原理はわかっていても技術的には難しいこと」「科学的にはよく知られた現象でも、人間の調査不足で知られていなかったもの」「有りそうだとはわかっていたが見て見ぬふりをしていたもの」が多くあるらしい。「科学」という「物理現象の記述」も、「言論ゲーム」の「外」にあるとは言い切れなさそうなのである。
「言論」はルールが無いわけでもなく、ルールがあるわけでもなく、刻一刻とそのルールを構築してゆくものなのである。
 このような、言論空間でのルールを利用した権力闘争と、そのダイナミズムをすっきりと説明してくれる本というのは私も読んだことがない。安冨さんはそこに一番近い人物のひとりだと思うのだけれども・・・。
 
 
 
 本書のタイトルともなっている「東大話法」というネーミングは、一面真実にしろ、逆に言えば一面にしか真実がないものと思う。この概念を目にしながら本書を読み進めるのは、苦痛とまでは行かないまでも、多少肌触りの悪さを感じた。また、そもそもこういった「議論のルール」を定めることの、ヤヤコシさについても述べた。このような規範を設定することには単にヤヤコシイとか、メンドクサイ以上の「居心地の悪さ」を私は感じる。
「東大話法」という言葉に対する違和感、そして「議論のルール」を定めることへの違和感はなんなのだろうか。

「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」は、ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」に出てくる有名な言葉である。これの直前には別の文章がある。以下に引用する。

私を理解する人は、私の命題を通り抜け――その上に立ち――それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。その様にして私の諸命題は解明を行う(いわば、梯子を登りきったものは梯子を投げ捨てねばならない。)私の諸命題を葬り去ること。そのとき世界を正しく見るだろう。

 禅において「言語道断」という言葉がある。現在では「とんでもない悪行」ぐらいの意味で使われているが、元々は「悟り≒道は、言葉にしてはならない(できない)」というような意味だったらしい。
 おそらく「東大話法」という言葉も、その鏡写しである「哲学的議論の要諦」も「登りきったら捨て去るべき梯子」であり、方便の一種なのではないかと思う。少なくとも、私はこれ以上「東大話法」という言葉を使いたくはない。


 
 著者のTwitter上での発言は、受け入れづらいものが多い。連続ツイートは比較的まともかもしれないが、全体的に「小馬鹿にされている感」、もしくは「小馬鹿にされる可能性」をどうしても感じる語り口だと感じる。少なくとも、自分の主張を認めない人に対して「こういう人が早く死にます」などとは言わないほうがよい。



 追記ウィトゲンシュタイン全集の8巻、届いたのでパラパラとめくっていたら、「人間の身体は、人間の魂の最良の映像である」という言葉に出くわした。ちょっと前後との関連が分からず、どういう意図で言ったのか難しいが、「コンテキストマーカー」や「潜在的メッセージ」の話を簡潔に表現した言葉にも思える。

原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―

原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―