CentOSで遊ぶ。

ずいぶん長く書いていなかった。これからはもう少し更新頻度上げたい。

で、今こういう本読んでいるんですよ。

Ruby on Rails環境構築ガイド

Ruby on Rails環境構築ガイド

自分はLinuxとかサーバーサイドの知識とかがさっぱりだったんで、結構楽しみながら読んでいます。
環境構築とかって途中で分からなくなりそうなんで抵抗あったんですが、非常に分かりやすい、省略なしに丁寧に書いてくれていて初心者にはありがたいです。
今はとりあえずCentOS入れてコマンド一通り見たところ。
これからgitに関する章。

自作のアプリ開発に使える程度にはサーバサイドの知識も身につけたいかなーと思っているので、
これからRuby on Railsも使えるようになっていこうかと思っています。

そういえば、Rubyによるデザインパターンって本も読んだので、次はこれについて書きますね。
しばらくは記事って言うよりも日記ぐらいの感で書いていって、ブログ書く事(文章を書く)って習慣から身につけたい。

超適当なプロット

えー、超適当なプロットです。
何にするという事もないのですが、せっかくなのでメモ代わりに書いておきます。

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「おじいさんが呆けた?」
主人公は連絡を受け、昔暮らしていた家へと久しぶりに足を運ぶ。
姉の話によると最近の祖父は、もう何十年も前に交通事故で亡くなったおばあさんに会ったと言い出したり、
もう切り株になってしまった庭の桜が咲いているところを見たと語るのだそうだ。

祖父の家にて、主人公はその夜、夢を見る。

「つづき夢」というものをご存知ですか?
ええ、この前話しましたよね、おばあさんの交通事故。
一緒にね、隣の女の子も亡くなっているんですよ。
二人は一緒に出かけていたのです。
子供心にその子の事が気になっていたんでしょうか、この家にいた頃はよくその子の夢を見たのです。
ただ、不思議な事に夢の中の彼女は、ちゃんと年を取っていくんですね。
もう何年も彼女の夢は見ていないのですが、この家に戻ってきたせいでしょうか、昨日久しぶりに会う事ができました。
ええ、僕と同い年ぐらいでした。なんというか、見違えるほどだったのですが、不思議ですね、必ず彼女だと分かるのです。
町もこの町なのです。どこか少しずつ違うのですが、それどころか全然違うようなところもあるのですが、確かにこの町なのです。

主人公、おばあさんのお墓に花をあげにゆき、隣の奥さんとちょうど出会う。

あの夢は今も見てらっしゃるの、そう。あの子もあなたの事が好きでしたからね。
確かこの辺りに伝わるお話にこんなものがありました。
(適当に伝承。思い人が夢に現れるとか。あと老人は死が近づいているので、二つの世界を揺らいでいる、みたいな。)

その夜、祖父が裏口からそっと出てゆくのを見た主人公はあとをつける。
庭には見事な夜桜が咲いていた。
主人公は祖父のあとを追う。夢で見ていたあの町だ。
夢の少女(現在)と出会う。どうやら僕たちは待ち合わせをしていたようだ。
周りをよく見ると色々な年齢の彼女が、時代もチグハグな町のあちらこちらにいる。
ここは複数の世界が交わるところらしい。

祖母の姿も見えた。祖母?
そうか、あそこは、あの場所は、「あの日」
飛び出した主人公は、何かとても長い夢を見たような気がした。
それは自分の夢だというのに、何故かその世界には自分は存在しないような、悲しい夢だった。
しかしまた、ずっと見る事を望んでいた幸福な夢でもあった。

主人公が目を覚ます。
夢?そうか、そうだよな。

おばあさんがひょっこりと顔を出して、もうこんな時間ですよと言い出す。
僕は何だかとても長い夢を見ていたような気がして、しばらくぼうっとしていたのだけれども、
そうだ、今日は大事な用事があったんだと気づくと、あわてて準備をしだした。
僕がつくまで、彼女は待っていてくれるだろうか?

「おばあさん、何だかとても久しぶりに会うような気がしますよ」
「いやですねえ、ボケちゃったんですか?」
「まあそういわないでください、僕はずっと」

待ち合わせ場所にいた彼女の台詞とシンクロさせて
「ずっと、会いたかった」

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呆けという現象は実は、死が近づいたときに存在が揺らいでパラレルワールドの自分とかと重複状態で存在してしまうってことで、老人介護を通じてパラレルワールドへの移行が可能になる、とかゆう考えが浮かんできたので。

【物語作成】アトランティス彷徨

とりあえず、好き勝手に妄想を付け加えてみました。

2012-09-03案

輪廻ー心臓記憶 併用案

少年と老人、父、日夏ムスカが同一人物(同一魂)。
少年と老人は同じ人生。父は少年の生まれ変わりで心臓を貰い受けていた。

少年ーCーBーAー老人

父はA時点の心臓、少女に移植されたのはB時点の心臓。この時点で父は死ななければならない?
少女に記憶が移されるが、でも魂が生まれ変わりでないと記憶にアクセスしきれない。
今の少年の心臓はC?

日夏ムスカも少年、父の生まれ変わり。実は少女の心臓(B)を狙っている。
同じ理屈で父(A)、少年(C)、老人の心臓でもいい。

もう何度も生まれ変わっている(もしかしたらそのたびに時空の歪みで少女に出会っている)ことにすれば、うまく1万2千年の時間が出せるのではないか?


タイトル案
わたしのアトランティス
→ここは再考お願いします。
→(ずっと自分の中にあった)少年と出会うという話なので、もう少し少年を強調したい気がします。
アトランティスという固有名詞はやっぱり必要でしょうか?

→わたしが生きた海へ
→少年は海の国に生きた
→再会の海
→わたしの記憶の海の国
→あなたの記憶の海の国
→あなたの記憶、わたしのアトランティス
→アンドロギュノスの見る夢

→色々と考えてみた結果、「わたしのアトランティス」が結局一番ハマっているような気もしてきました・・・。

少女
アトランティス人の父を持つ少女。幼い頃に父により心臓移植を受けており、それによりアトランティス人の記憶の一部を持っている。この心臓は少年のもので、彼女が見る夢は、この少年の見た夢である。
ホロコースト後の価値観崩壊をもろに受けた世代にあたり、自分を失っている。
容姿、性格等はとくに考えていない。

→容姿は吉野朔実の「少年は荒野をめざす」の狩野都、「瞳子」の瞳子のようなイメージ。性格もそれに近い。
→学校には行っているのだろうか?どんな学校に?バイトはしているのか?電車とか乗ったりするのか?寝過ごしたりしたりするのか。
→軍の支給で暮らしているという設定があったので、多分「ある枠」からははみ出さない優等生(でも問題児w)。無気力だがマイペースであって、その時代性に乗りきれないマイペースなことが主人公として重要。
→買い物も軍の支給で生きているので贅沢なものは買えない。でもセンスはいい。ちょっとした掘り出し物なんかを見つける。その中にアトランティスの遺物があってもいいかもしれない。

急速な復興と、地中海干拓事業の熱気の中、その時代性にいまいち乗り切れず、無気力な少女である。しかし、時折、夢に見るアトランティスの記憶に惹かれることを自覚している。
→その夢は少年の視点から見た夢でないとならない。

父(仮称)
 拡大EUにアトランティスの技術を伝え、英雄と称えられている。

→技術の内容については再考
→その後少年の心臓Aを移植、生まれ変わりであることを知る。
→少年はアトランティスは滅び行くべきものと思ってたんだよね、でもその原因は実は自分が作っていた。
タイムパラドックスですよ!

しかしヒロインとは幼い頃に別れており、行方は不明である。

→少年の記憶を引き継ぎ、ヒロインと距離を置く必要があった。

どうも拡大EU軍と行動をともにしていたようだが、目的は不明。

→拡大EUの動向を英雄という立場で探るため。アトランティスの少年とコンタクト
をとるため。日夏ムスカが生まれ変わりと心臓の秘密を知ることに。

ヒロインは、父がアトランティスの遺跡に潜って、消息をたったため、拡大EU軍に呼ばれ、父を探すたびにでる。

→実際には父が心臓Bを少女に移植。死亡。
→時空の歪んだアトランティスで化石になって生存?

少年(仮称)
 ヒロインの心臓の提供者。時空を超えるチケットを生み出すことが出来る。彼の身体は時間を停止しており、一種の不老不死なのだが、チケット生み出すたびに若返っていき、最後には消滅する。そのたびにヒロインは少年の記憶を受け取り、最後には、少年のヒロインへの愛を知る。
 父(実は同一人物)の思想に共感を覚えており、協力をする。アトランティス内では一応貴族。

日夏ムスカ
→前述「少年は荒野を目指す」の日夏さんのイメージを汲みつつ。
→元のアイデアだとムスカポジションの人だから、日夏ムスカw もちろん仮称。
→ヒロインのパトロン的な存在でもある。つまり軍の少女への支給はこの人の動きが大きい。
→本当にやさしい。少女漫画に出てくる大人の男のように包容力がある、しかも少年の心もある。なぜか。例の生まれ変わりと心臓の秘密を知っているのは拡大EUのなかで日夏ムスカだけ。

拡大EU
父をなんとか探し出したいと考えている。アトランティスのことはあんまり知らない。少年はアトランティスを閉ざしたいと考えているので、一応敵対している。
→例の生まれ変わりと心臓の秘密を知っているのは拡大EUのなかで日夏ムスカだけ。

アトランティス
アトランティス人の時空崩壊、化石化とはどのようなものかということをもう少し考えたい気がする。

アトランティス人開放派(仮称)
アトランティス人をなんとか、現実世界に移民させたいと考える派閥。父(仮称)の敵。
→もうゾンビみたいな奴がムリヤリ生きようとしている感じの印象。
→少年は自分がゾンビであることを知っているのだな。。。

アトランティス人保守派(仮称)
アトランティスはこのまま滅びを受け入れるべきだと考える派閥。父(仮称)に近い?
→滅ばなければどのような不都合が?

チケット
 時空を超えることが出来る。少年(仮称)のみが作り出せる。
 それ以外は不明。

→時空を超えるのはなんのためなのか。誰の意志で誰が誰のためにやるのか。
→どう使うのか。ゲートを開けるのか。ゲートは外の何年につながるかはわからないのか?
→チケットを作る能力自体も少年の生まれ変わりの誰かから引き継ぐタイムパラドックス式にしてはどうだろうか。

よもやま
幻肢痛、幽霊、シシ神のような役割の存在。原初の記憶は羊水のごとし

【ネタバレあり】今井哲也「ぼくらのよあけ」

 伝統的な日本の熱帯夜に、こんばんは!
 今日は、今井哲也「ぼくらのよあけ」について語っていこうかと思います。
 夏とか小学生とかSF要素とか君はホントこういうのスキだよねえ、とか言われそうですね。



ぼくらのよあけ(1) (アフタヌーンKC)

ぼくらのよあけ(1) (アフタヌーンKC)



 まだ団地はある。お箸でご飯を食べている。小学生はランドセルを背負って学校まで歩いている。
 ロボットは、ある。よくマンガに出てくるような、フレンドリーなお手伝いロボの正統後継者。相変わらず朝は子どもを起こしたり、一緒にゲームをしたりする。人々の生活は意外とあんまり変わっていないような。今と地続きになった未来。
 ちょっとぐらいの進歩なんて気にも留めずに宇宙はやっぱり遠い神秘で、小学生なら宇宙人の存在に憧れている。

 2038年8月21日、SHⅢ・アールヴィル彗星が地球にやってくる!
 宇宙バカな小学4年生、沢渡ゆうまは最近ちょっと不機嫌だった。楽しみにしていたオートボット・ナナコは意外と口うるさい。お父さんお母さんのお手伝いが仕事だから当然なのだけれど、それにしてもあの世界最高の宇宙衛星SHⅢと同じシリーズの人工知能を搭載しているロボット、言ってみればSHⅢの妹のようなモノなのに、あんまりにも趣味が合わない。せっかく28年ぶりにSHⅢ・アールヴィル彗星が地球に接近するってのに、コレじゃ宇宙の話なんて出来やしない。
 でもふとしたキッカケで、ナナコとも宇宙の話ができると分かった。オートボット向けにはSHⅢの観測したデータの一部が公開されている。これを解析すれば、ゆうまにも新しい彗星を見つけることが出来るかもしれない!
 高揚した気分で家に帰る途中、突然ナナコが奇妙な画面を表示し聞いたことのない声で話し始める。ナナコを乗っ取った何者かは、ゆうまを団地の屋上に誘導。そして語り始める。

「私は無人探査船 二月の黎明号 君たちの時間で言えば1万2000年かけてこの星にたどり着いた」
「君たちの言葉で言えば 虹の根 という意味の名を持つ星からきた」
「SHⅢの助けによってこの星に降下した」
「この団地の棟そのものが私となっている」
「頼みがある 私が宇宙に帰るのを手伝ってもらえないだろうか?」



 と、こういうふうに書いてみると、まるで夏休みの子供向けアニメ、ドラえもんの映画やサマーウォーズのようですね。実際このマンガはそれらを心からリスペクトしているであろうことが強烈に伝わってきます。
 ですが、この漫画は決して冒険ものなどではありません。世界の危機もやって来ません。それどころか主人公たちは「小学生が自転車で行ける範囲範囲」から外に出ることすら無く、何かとバトルすることも無いのです。
 なんと、この話の中心は「女の子と仲直りすること」、ホントにこれだけなのです!
 しかし、面白い。
 心地いい既視感に満ち溢れながらも、今までの作品を一つ上書きしたように感じられる。
 それは一体なぜなのでしょうか。

 このマンガの特徴は無人探査機・二月の黎明号の語り口に如実に現れていると思います。
「今の私はナナコを無断で乗っ取っている状態だ、私はこの状態は好ましくない」「話は彼女が私に体を貸すことに同意してからにしよう」「私を再起動させるか、それとも私を破壊するか。判断は君たちに委ねる」

 この口調、誰かを思い出します。そうです、同じアフタヌーンの作品、「寄生獣」のミギーです。
寄生獣」は人間の脳を乗っ取り、人間に偽装した状態で捕食活動として人間狩りを行う寄生獣たちが出現します。そんな中、高校生・泉新一と、新一の体の乗っ取りに失敗した寄生獣・ミギーは生存のためというごくビジネスライクな理由により協力し、人間社会に紛れ込んだ寄生獣たちと戦っていきます。
寄生獣」において、新父とミギーは本来対立した陣営にいるはずの二人なのですが、同じ体に同居することによって身の安全というよりベーシックな次元での利害の一致が生まれます。しかし、新一は人間であり、道徳などの本能からは少々乖離した心理を持っています。この高次元での利害の不一致を対話によって解決しようとする部分が「寄生獣」のクールなところだったように記憶しています。

 二月の黎明号は生物ではありません。そのため自己保存の本能さえありません。目的はただ一つ、何者かに持ち去られたコアを手に入れて記憶を取り戻し、その記憶を母星に持ち帰ることだけです。調査対象である地球の環境を乱さないためには自壊をも辞さないのです。この物語を見返した時、高度なテクノロジーを持ったはずの二月の黎明号が、助けを求める以外にほぼ何も行動を起こしていないことには意外感を覚えるでしょう。

 ココが重要な点です、二月の黎明号は何もしません。何も判断しません。ゆうまたちの行動の責任はすべて本人たちにあるのです。これがこの作品のテーマの一つと言ってよいでしょう。「自分で判断する」ことです。
 ドラえもんでは、のび太たちは簡単に動物を拾い、時にはロボットさえ拾い、世界を別のものにし、歴史を変え、また元に戻します。もちろんそこが面白いところですし、第一、対象年齢の差があります。それに、普通に見ていれば文句なしに面白いものです。ですが、やはりほんの僅かながらも違和感があるのです。「女の子をこんなキケンなことには巻き込めない!」と言いながら、しずかちゃんの家のお風呂を異世界の入り口にするような、ほんの僅かな違和感が。
 それに対しこの作品は、変な言い方をすれば「寄生獣」をジュブナイル化したような、そういう理性が片側を照らしているのです。
 おそらく、その反面として、この作品前半の最大の面白さである、秘密を持ち、大人たちから隠れて行動するコトの面白さが出てくるのです。



 さて、「大人たち」という話題が出てきました。おそらくこの作品を読んだ人ならば「この話はしないの?」とずっと思っていたのではないでしょうか。この作品を一読したときにドラえもんなどの過去の作品との大きな相違を感じるのは「大人たちの立ち位置」でしょう。ドラえもんでは大人たちは全くと言っていいほど干渉してきません。それはもはや一種の伝統として日本のアニメ、漫画に根付いているとすら言っていいのではないでしょうか。
 ところが、この作品では大人達が独特の距離感を持って干渉してきます。
 がっつりネタバレになってしまうのですが、ゆうまの母たち大人世代は28年前既に二月の黎明号に遭遇しています。
(まぁ、一応は第二話の時点で示唆されているから。。。 と言い訳をしておきますw)
 しかし、大人達の態度はあくまで冷静です。佑磨達に感情移入してしていると最初は冷淡に思えるほどかもしれません。特にゆうまの母と二月の黎明号の再会シーンは「えっ、そんな感じでいいの?」と思うような距離感です。
 これにもやはり先ほどの責任というテーマが関わってくるのですが、その責任というテーマが親と子供という関係の中では「引き継ぎ」という問題を生みます。大人達と同じく、大人達もストーリー ーこの場合ゆうま達の選択と行動ー には強くは干渉してきません。ダメなものはダメと言いつつも、自分たちの世代で果たせなかった約束をできる限り子供達の遊び場として解放しています。この距離感がとても心地よいのです。
 
 この漫画は全二巻、十話のエピソードから成るのですが、本当に巧妙に構成されていると思います。
 この話の主要期間は2038年の7月13日から8月21日までなのですが、この期間の選び方が物語の装置として非常に有効に機能しています。
 最大のポイントは、夏休み前の期間、そして夏休みが始まる期間を含んでいることです。全十話のうち、ちょうど巻を跨ぐぐらいのタイミングで夏休みを迎えます。ちなみに私がこの物語で一番好きなのはこの巻を跨ぐ5話、6話だったりします。
 この作品にとって「学校に行っている期間」があることはとても意味のあることです。なぜならば、この作品のもう一つのテーマは「人間関係」だからです。
 最初に、この作品の中心は「女の子と仲直りすること」だと言いました。ちょっとここから先はどうか自分で確認していただきたいのですけれど、二月の黎明号のコアを所持している女の子はとある事情で主人公達とはかなり気まずい関係にあります。しかしコアは手に入れなければなりません。
 そんなわけで女の子の跡をつけたりするのですが、その子の父親にあっさり見つかってしまいます。ある程度事情を話してコアを返してもらおうとするのですが、父親はあっさりこう言い放ちます。
「いいか?コアが欲しかったら自分達の力だけで仲直りしてみろ」「ちゃんと一対一で話し合って、いいってなるまでコアはお預けだ」
 どこまでも「ちゃんと話し合うこと」を主人公達に課しているのです。
 もちろん事情が事情ですから、それはただ単にほほ笑ましいだけではないのですが。

 

 あえて難点を挙げるとしたら、エンディングでしょうか。ちょっとあっさりし過ぎていたかなと思います。「友達」はその組み合わせだけじゃないでしょう?と思ってしまいます。もう少しノスタルジーが欲しかったと個人的には思ってしまいます。5話目の空気が好きなのですが、もう少しあの空気が生きてきたらと想像してしまいます。未来と宇宙と何かしらの不安を見上げつつ、夕焼けに染まっているあの感じが欲しかった。
 ずっと「ありそうな未来」を描いてきたところから、技術的特異点をすぎた未来に飛んでしまったのも惜しい。

 しかしまあ近年まれに見る名作であることは間違いありません。絵柄もかわいいですし、非常におすすめです。全二巻ですからおサイフにも優しい!w
 ぜひともぜひとも。

「おおかみこどもの雨と雪」を観てきた。

 「おおかみこどもの雨と雪」を観てきた。

 冒頭の花が揺らぐシーン、雨に濡れた蜘蛛の巣など、実写にしか見えないような実在感がありながら幻想的な美しい映像。
 子ども独特の怒った時のガナリ声、教室でガヤガヤしているシーンの口調などはすべて実にリアルで生命力がある。
 「バレてはいけない」系にお馴染みのコメディー要素も取り込み、周囲の子どもたちも楽しそうにしていた。

 母親である花の無力さと、そこから強さを身につけていく過程。
 子どもたちが成長し、時にぶつかり合いながら自分たちの生き方を模索する姿。
 そして子どもたちが生き方を見つけてしまったと気づいた、もう子供の頃とは違うと気づいてしまった時、大きな悲しみ、ずっと探していた懐かしい何かに出会えたような気持ち、笑って送り出せる強さ。
 それらすべてが、花に凝縮されていた。
 けれど何処かで「あの人」が花を見ているように、花、雨、雪もどこかお互いを見守り続けている。

 観終わったあと、とても爽やかな気分になれる映画でした。


 
 私は病院の帰りに映画を観ることになっていた。
 実は、私はこのところ眠い。すごく眠い。病院の待ち時間の間はずっと寝ていた。「若い人はそうなんですよ、年とると早く目が覚めます」「先生、まだそんな年じゃないですか」などと医者先生と戯れる。
 一軒目の病院が終われば二軒目をハシゴ。二軒目は窓口で薬を受け取るだけの簡単なお仕事です。

 その後に映画館に寄ったのだけれども、上演時間の都合で映画館と併設されたショッピングモールで一時間ぐらい待たなければならなかった。誰か人を呼んで一緒に見ようかなぁ、とも思ったのだけれど、私には電話一本で飛んでくるような友人はいなかった。

 開場。福井の劇場は満員御礼という程でもないけれど、お客さんはたくさん入っていたと思う(福井基準)。親子連れが多く、子どもは幼稚園児ぐらいの子も多い。「おかあさん、キスシーンとかってあるかな?」「しらねぇよwwww」などと話しているのが面白かった。

 さっきも書いたが私はこのところずっと眠い。
 だから途中で眠ってしまわないか心配だったのだけれど、それは完全に杞憂だった。完全に映画に没頭していた。

 だが実は睡眠の他にも心配事はもうひとつあった。予告編を見る限り以下の問題があるように見えたのだ。
 ①舞台が限定されすぎている
 ②登場人物が少なすぎる。
 ③子育てといっても幼児期が中心
 ④母親の物語への支配力が強くなり過ぎないだろうか
 ⑤つーか田舎ナメてね?
 予告編だけでなく、ポスターの絵のせいもあるかもしれない。

 でもこんな心配も杞憂だった。
 ゆるやかな時の流れの中、「おおかみこども」達の成長、その母親である花の成長を通じ、これらの問題は一つ一つ解決されていく。

 舞台が限定されている?そんなことはない。子どもたちはそれぞれの生きる道を見つける。
 このことは山であったり学校であったりという具体的な舞台を映画の中に登場させる役割もあるのだけれど、それ以上に「これから生きていく世界」のすべての予期させる効果がある。
 「山」「学校」生き方を決意する場所となることによって、これからの生きていく世界すべてを含めたスケール感を詰め込んでいる。この年令のこどもだからできる、そしておおかみこどもという特殊な設定だからこそ出来る魔法かもしれない。
 (田舎ナメてね?ってのも子どもたちがそれぞれの道を見つけていくことで反論できそう)

 登場人物は予告では印象が薄いが、必要十分の人数が必要十分の役割をこなしていた。(草平くんと韮崎のおじいちゃんはもっと予告に出してあげて欲しいと思ったけどw)
 何より、幼児期の「おおかみこども」と少年少女期の「おおかみこども」の性格の変化と、世界における自分の位置の把握の変化が、三人の親子関係に少しずつ影響を与えてゆく。
 この関係性の変化が丁寧に描かれていることが主要登場人物の少なさをカバーしているのだと思う。(これって少女漫画とかだったらベタな技法なのかも?)

 「サマーウォーズ」みたいな映画だと、起承転結で話の流れをカキッ、カキッと変えていく。
 だが本作は話はシンプルでわかりやすいのに、無理に起承転結に分けようとすると「これはなにか違う」という気がした。

 まるで季節の替り目のようだと思った。幾つものことが同時に起こっているのに、昨日と今日は確かに違うのに、どうしても「いつの間にか春になっていた」ような感じ。
 世の母親がこどもの成長に気づく時って、こんな感じなのかもしれない。

 けして「母親」が主役ではない。「花」も「雨」も「雪」も、それぞれ皆自分の人生の主人公だという、事実。それが「母親」の回想として語られる。

 そういう映画だった。






























余談
 雨も雪も花も水分と関係のある名前だけれど、水のイメージが本作の柔らかさ、冷たさ、循環のイメージと合っていてウマいネーミングだと思った。シンプルだから普遍性も高いし。
 これも長く親しまれる作品になるだろうなぁ。

超余談
 パンフレットに載ってたスタイリストの伊賀大介さんの写真がマジイケメン。
 細田監督が「(花と結婚する)おおかみおとこ」のイメージとぴったりなんです!と語ったと言うのも納得。

超余談2
 幼児期の雨可愛い!ヘタレっぷり甘えっぷりもリアル。大きくなるとカッコイイ。ショタコンの人にはたまりません。

夢みる機械

//「四角い丸」はありうるか
try{
 「四角い丸」を想定する
catch(Exception e){
 System.out.println("その様な事態はありえない");
 //どのようにありえないかを考察する
 e.printStackTrace();
}

 せめて、自分でエラーを読むプログラムを作らなければ、この種の問題について考えるロボットを作ることはできない。
 自分でエラーを読み、その意味を解釈し、「どのような意味でありえないか」を考えることができなくてはならない。

安冨歩「経済学の船出 創発の海へ」

 『原発危機と「東大話法」』の書評を書いたところ、ありがたいことに、Twitterで安冨氏本人から反応を頂いた。

安冨歩『原発危機と「東大話法」』 - イマココ日記

 その時のログを残していないので誤解があったら申し訳ないが、主な論点は「あの本はルールを書いたものではない」「共有というのは不可能だと考えている」「永井均氏の『哲学的議論の要諦』を肯定する理由がわからない」であった。特に二番目の論点について安冨氏の考えをしる方法として「経済学の船出」を読むことを勧められた。なんだか口車に載せられた気がしないでもないけれど、読んでみたので感想を書いてみる。

経済学の船出 ―創発の海へ

経済学の船出 ―創発の海へ

■「共有」は可能か

 数ある著書の中で、特にこの本を勧められたのは「他者との何かの共有」がありえないという安冨氏の思想が解説されているためである。通常、他者と何かを共有することは可能であると考えられている。しかし、本書は「共有」が不可能であることを論証しようとしている(私はむしろ、「他者との共有」が可能であるという常識がどのようにして構成されているか、ということの方が重要ではないかと思う)。
 本書で、特にこの点に関連していそうなものは、「ポラニーの暗黙知」「ホイヘンスの実験から見たスピノザ」「ウィトゲンシュタインの語りえぬもの」である。

 ポラニーの「暗黙知」とは、一般的に言葉で表現されていない「慣習的な知識」「身体的な知識」であるように思われているが、ポラニーの原書では「tacit knowing」すなわち「暗黙の知る活動」と言う過程のことを指している。
 なぜこの意味での「暗黙知」は言葉で表現できないのであろうか。そもそも「暗黙の知る活動」とはどのようなものであろうか。
 本書では、ウィトゲンシュタインの「語りえぬもの」と「暗黙知」を同一視している。私としてはこの解釈はかなり正しいように思われる。

暗黙知」は「語りえぬもの」と同一視されているので、「語りえぬもの」についての解説を参考にしよう。参考にするのは例によって永井均の「ウィトゲンシュタイン入門」である。

ウィトゲンシュタイン入門 (ちくま新書)

ウィトゲンシュタイン入門 (ちくま新書)

 永井氏はこの本の序章で「語りえぬもの」を二種類に分ける。一つは「形式」であり、もう一つは「独我論」である。永井は前者を「超越論的(先験的)なもの」、後者を「超越的なもの」と呼ぶ。前者は世界の形式に関するものであり、後者は世界の外にあるものと言えるだろう。永井氏のウィトゲンシュタイン解釈では、独我論がいかに語りえないかの見解にあたる、「形式」に関する思考の発展が、ウィトゲンシュタイン哲学の発展であるとされる。
「形式」に関する思索は、前期(論理哲学論考)においては「論理形式」、後期(哲学探求)においては「生活形式=言語ゲーム」として表現された。
 注意するべきことは、「語りえぬもの」は決して表現が難しいと言う意味での「表現不可能性」を持ったものではない。言語の構造的に「言及不可能」なものである。
暗黙知」は、「形式」と「独我論」のどちらの「語りえぬもの」に入るか。前者である。それは言及できないものではあるが、神秘的なものではない。(「東大話法」冒頭の、「語りえないこと」について語ることが「冒涜」になるという安冨氏の文章は、ミスリードとして働く)。

 永井氏はルイス・キャロルの寓話「亀がアキレスに言ったこと」(「不思議の国の論理学」に収録)を引用して解説する。

不思議の国の論理学 (ちくま学芸文庫)

不思議の国の論理学 (ちくま学芸文庫)

 アキレスは亀に「AならばB、かつAであるとき、B」ということを認めさせようとしている。亀は「AならばB」(前提Pとする)と「かつA」(前提Qとする)を認めるが、それだけでは「ならばB」(結論Zとする)という結論が導き出せないとする。亀は、Bという結論を導き出すためには、前提P、前提Qに加えて、「前提P、前提Qであるとき、結論Z」(前提Rとする)という前提がなければ、結論Zは導き出せないとする。
 たしかに、前提Rを認めないときには前提P、前提Qを受け入れた際にも結論Zは導き出せない。多分もう皆、嫌な予感がしているだろうが事態はその予感どおり進む。つぎは「前提P、前提Q、前提Rを認めるときに結論Z」という前提を新たに法則として組み込むことを求める。当然、このあと起こるのは無限後退である。

 このように、メタ的に法則を語ることができない事柄がある。例えば、「利用規約」の内に「利用規約の読み方」は書き得ない(書いたとしても、「利用規約の読み方」の読み方が問題となる。今後、このような無限後退の構造を含み込んで「利用規約の[読み方]∞」のように表現することがある)。
 重要な点は、このような無限後退が「事実、既に克服されている」ことである。いかにしてこれを克服が可能かは説明できない。あえて言うならば、人間は「そういうふうに出来ている」からである。この克服を可能にしているものが「語りえぬもの」である。
 この無限後退を克服する力は、認識面であれば「カテゴリー」と呼ばれ、行動面であれば「暗黙知」となる。
 
 さて、このような「語りえぬもの(暗黙知)」は、「共有が不可能」であることと、どう関連するのか。
 安冨氏は、ウィトゲンシュタインを引用することで「共有が不可能」であることを解説しているようであるが、正直、ココのつながりがよく分からない。
 「暗黙知」と「語りえぬもの」の同一視はよく分かるし、正しいと思う。しかし、「共通の行動様式」に対する解釈は間違いではないかと思う。

「共通の行動様式」は「規則に従う」ことに関連する。
 言語が通じていることを確認するためには、規則に従っているかどうかを確認する必要がある。例えば、「〇〇を持ってきて」と人に頼み、予期したものと同じものが出てきたら「正解」とする。
 このような「確認作業」自体の規則が異なる人と、言語を共有することはできない。
 このような「確認作業の共通性」が「共通の行動様式」である。

 もし私が「赤い紙を持ってきて」と頼み、頭の中に赤い色を思い浮かべる。そして青いボールが届けられるたとする。私は「正解、これが赤い紙です」と言う。この場合、「確認作業の規則」が異なるとは思われず、この人は「青」を「赤」、「ボール」を「紙」と言うのだと思われる(か、頭がオカシイと思われる)。

ウィトゲンシュタインが「規則に従うには訓練することが必要と考えていた」とするのはおそらく誤読であろう。正しくは「ある特定の規則」に従っているとされるために、訓練することが必要なのである。
 先程の確認作業の比喩を、親子関に置き換えて考えよう。子どもが車を指し「ブーブー」という。母親は「そうね、ブーブーね」と言う。子どもが猫を指し「ワンワン」といったら「違うでしょ、あれはニャーニャーでしょ」という。
 後者の場合、子どもが「猫のことをワンワンと呼ぶ」という規則に従っているとされることは明らかである。何かをさしてそのものを特定の言葉で呼ぶ。その様な規則への[従い方]∞が共通していること(共通の生活様式)を前提とした上で初めて「猫をニャーニャーと呼ぶ」という他の規則に従うことを教え得る。「規則に従う方法自体=暗黙知=語りえぬもの」を教えることはできないが、ある特定の「規則への従い方を示す=実際に規則に従ってみせる」ことは可能である。また、規則が数列などであれば「2,4,8,16,32,64,128,256」という数列の規則を「2倍してゆく」と説明できるだろう。
 そして子どもがその様な規則への従い方を身につけようと努力し、身につけることも可能である。
 ただし、子どもがすでに「2倍してゆく」という規則への[従い方]∞を知っていることが必要なのであるし、また、8を2倍した16を「16」と書くことで表すことが必要である。「10」あるいは「ズンドコベロンチョ」「\(^o^)/」などと書いたら規則に従っているとはみなされない。規則に従っているとされるには「僕は「16」を「10」と16進数で書いたんです」などというように、「大人に合わせて」説明できなければならない。
 もし子どもがなんの脈絡もなく「ワンワン」と言い出したら、「犬の鳴きまねをしている」と思われる、もしくは「犬の鳴きまね遊びを親に求めている」と考えるだろう。しかし犬が「ワンワン」と鳴いていたらどうか。その場合「規則に従っている」わけではないだろうし、飼い主が言葉を教えることもできない。犬は「あるもの特定の言葉で呼ぶ」事ができないのである。これは犬は言及能力がないと言い換えることが出来る。もし、番犬が見知らぬ人間に対して吠えていたとしても、それは「不審者を発見した」という「言及」をしているのではない。犬が規則に従っていることを見ることが出来るのは、モノを持ってこさせる時だけである。

 安冨氏は「共通の生活様式」をとすることはウィトゲンシュタインらしくもない事と感じたようである。たしかに、「なぜか結果的に一致している」ということしか言えないのであり、「規則への従い方=語りえないこと」が「人類に共通」していることは保証されない。しかし「なぜか結果的に一致している」ことから「規則への従い方=語りえないこと」が一致していることにされる、という過程もまたウィトゲンシュタインに特徴的な議論の仕方のようにも私は思う。

 本書で「共有不可能性」の説明になっているものは「恋人同士の初めてのキスは、AにとってはBとのキスであるし、BにとってはAとのキスである」という文章だけではないかと思う(その他は、「これは共同体&共通性という概念に縛られている」「これはそうではない」という分類がされているだけであるし、ウィトゲンシュタインの「家族的類似」についても同様だと思う。「家族的類似」という概念が「共同体&共通性」という考えから逃れ得ているのは認めるが、それが正しいことの説明がない。また、この「家族的類似」が「共有不可能性」のどの議論を支えているかも不明確である)。その他の文章は特に「共有不可能性」の説明にはなっていないように感じられた。
 「恋人同士のキス」の例ではキスというものが「経験」という側面を強く持つため「自分の経験」と「他人の経験」が別という議論でも違和感が少ないが、通常「経験」としての側面を強調されにくいものならばどうか。
 例えば映画を例とする。「Aが観た映画」と「Bが観た映画」を分ける考え方は、やはりかなり不自然に感じられる。(もう一つ気になる点は、この考え方はある種の独我論と近いことである。)
 さらにこの話を推し進めていくと「右手が触ったもの」と「左手が触ったもの」は別のものだということになりはしないか。キスをしても「上唇が相手に触れている」ことと「下唇が相手に触れている」ことが別々に成り立つ。それがひとつの「キス」という事柄として把握されているのはなぜか。
 ただし、恋人同士のキスの例と、右手と左手の例には大きな飛躍がある。前者はある人格と別のある人格の間の話であった。後者はひとつの人格内の話である。
 一つの人格の中で時間差がある場合はどうか。「昨日である2月22日に私が観た映画」と「今日である2月22日に私が観た映画」は別物であるか。究極的には「共有」は他者との間にかぎらず自分の内部ですら不可能なのかもしれない。
 しかし、このような問いは興味深くはあるが、本書においては本質的ではないかもしれない。
 
 本書において「共有」が否定される理由は、それが不可能であることが重要だからではない。紛争の際に「共通の何か」が欠けていることが紛争の原因とみなされ、「共通の歴史」などを無理に見出そうとする。この「合意=一致した見解」を求めることの不毛さを指摘すること、また、「合意の形成=学習の停止」の危険性を指摘するために為された議論であると思う。
 共有の不可能性をもとに「共有しようとすることは有害だ」と言うことは、議論の接続に難点があるように感じる。
 むしろ、「共有しようとすることが有害」であることを証明して、そのことによって「共有志向を避けること」を「説得」なければならない。
 「共有の不可能性」から「共有志向の有害性」は出てこないと思う。「共有志向の有害性」の説明は、「合意の形成=学習の停止」へ向かうものだという危険性を指摘するだけで十分であり、その他は蛇足と感じられる。

 これも蛇足かもしれないが、「共有」という言葉の意味は「共通の生活様式」を通じて「共通」とされるものでなければいけない。たとえ「共有の不可能性」は認めた時でも、それを言葉として言うためには「共通の生活様式」がなければならない。「共有されていない」と言う時には、「共有」という言葉の定義が一致していることを期待していなければならない。
 ゆえに、発言することは期待することである。コミュニケーションは受け手が決めるという自体の裏返しとして、このことが言える。

「感覚」は共有され得ない。しかし、それは「感覚」という言葉が他者と共有できないという「言語(と生活形式)」が共有されていなければならないのである。

 さて、「共有不可能性」についての話はここで一旦終わらせていただく。ちょっと結論は持ち越しとなる。難しい問題なのである。これは本質的には「言語」は共有されるものか、という問題なのだろう。


 残るは「『東大話法』はルールが書かれた本か」「なぜ『哲学的議論の要諦』を肯定する理由がわからない」のふたつである。
 これに関する返答は、まず「暗黙知」についてもう一度考えることから始めたい。
 結論を先に言えば、「語りえないもの=暗黙知」は語りえないが、「それに基づいた行動=言語ゲーム=コツ」は語り得るのでは、ということになる。

■『原発危機と「東大話法」』は、何が書かれた本か。

暗黙知」はしばしば「コツ」と混同される。コツは訓練によって身につけられるものであるが、「暗黙知」はそうではない。この違いは「規則に従う」ことと「規則に従う[方法]∞」の違いと同じものである。
「コツ」は表現困難性はあるが、言及不可能性はない。それは達人の間では言葉で共有しうるものである。「猫を見たらニャーニャーと呼ぶ」という規則は既に「規則に従うこと」を知っている者の間では言及可能な事柄だ。
「コツ」は身につけることができるが、「コツを身につける力=暗黙知」言及不可能なものである。は「既に」身についているものである。達人の間でも「コツの身につけ方」は言及できない。せいぜい「効率のよい練習方法」を行なっていった結果として「自然と身につく」ものとしか言えない。「具体的なイメージを持つと上達しやすい」などは「コツの身につけ方」に対する言及と見えるがそうではない。これがコツの体得につながるためには既に「具体的なイメージを持つことで上達する」という能力を持っていなければならない。これに言及しようとすると、あのアキレスと亀無限後退が起こる。
 この無限交代が「既に克服されている」ことの、後付けの解説が「暗黙知=語りえぬもの」なのである。

「語りえぬもの」という言葉は実は「語りえぬもの」自体に言及しているのではない。起こるはずの無限後退が、現に克服されているという事態への言及である。この意味で、「既に克服されている」ことが「暗黙知」の根拠となるのであり、「暗黙知」が「克服される」事の根拠になるのでは無いのだ。(「なぜか結果的に一致している」ことから「規則への従い方=語りえないこと」が一致していることにされるという話を思い出して欲しい)

 さて、『原発危機と「東大話法」』に書かれていたものがルールではなかったとして、では何でありうるのか。「規則に従っている状態」と「コツを体得した状態」を、また「コツを体得する[方法]∞」と「語りえぬもの=暗黙知」を同一視することでよって、その説明が与えられよう。少なくとも私はこの答えで納得した。

 あれは「スランプ脱出法」なのである。より正確に言えば、「病的なコミュニケーションによって引き起こされるスランプの脱出方法」なのだ。

 その様に見るときに、なぜ私が永井氏の「哲学的議論の要諦」を「東大話法」より上に位置づけたかも分かる。
 スランプが起きた原因を深く追求することは、数あるスランプの克服方法の一つでしか無い。しかもそれは時として新たなスランプを招きかねない。
 安冨氏の、私への誤読はつぎの点に集約される。私は永井氏の「哲学的議論の要諦」のみを「東大話法」の指摘の上に位置づけたのではなかった。「要諦」と、「ハラスメントは連鎖する」における「エンターテイメント」論を同一のものと見なした上で、その二つを「東大話法」の指摘よりも上に位置づけたのであった。
「東大話法」はスランプの原因は指摘しつつも、そこからの脱出法(もしくは、「コツを習得した状態」)を強く示しておらず、しかもソレは「書く能力がなかった」のでなく、「書く能力があったのに書かれなかった」ものであった(なぜなら、安冨は「エンターテイメント」論でそれを一度やっていたからである)。
「スランプ」と「コツ」は言及可能なのである。言及不可能なのは「コツを身につける[方法]∞」である。「エンターテイメント」は「コツを体得した状態」であり、言及可能なものであった。この「エンターテイメント」についての話を『原発危機と「東大話法」』にもう少し書くべきだったと考えていたのである。

 「コツを身につける[方法]∞」と「コツを体得した状態」の二つを混同して「語りえぬもの」としていたことも、話が混乱した原因となっていたと思う。

■思考停止問題

 さて最後に、もうひとつ重要な論点がある。すなわち「自然な思考停止」の問題である。先程も書いたように、原因を考えすぎることはスランプのドツボにハマるパターンでもある。この「病的な思考のドツボ」と「健康な思考停止」の区別は、安冨氏のハラスメント論に対する本質的な批判(批難でなく、批判)となると思うので、その点に安冨氏からの反応がなかったことは残念であった。
 安冨氏のハラスメント論は、「内的反省」を重視し過ぎている点である。それだけではドツボにハマる。

 必要なのは、「やってみること」だ。

 練習しなければ上達しない。それは「呪縛を解く」際にも同じなのである。
 何かをして、その上で少しでも呪縛が解けたとと感じられたか。
 重要なのはこのトライ&エラーであり、そこにはどうしても「自然な思考停止」が必要となる。
 それは学習を阻害する思考停止ではない。学習に必要な思考停止なのである。



 さいごに。
「共有」の問題はもう少し厳密に考えたい。
 用語として「共有」と「共通」を区別するべきだったかもしれない。
 もう少しウィトゲンシュタインの勉強をしたい。


追記
言語ゲーム」が「共通の生活様式」と同一視されるとするなら、「共通の生活様式」の「共通」も家族的類似性による「共通」であることになる。ただしそれはウィトゲンシュタインがそう考えたというだけのことで、それが正しいかはまた別に検証する必要がある。また、このことが正しかった場合でも、そこからどのような結論が導き出せるかという問題がある。

追記2)
「上唇」と「下唇」がなぜ「キス」として統合されるか、という問題の答えを考えてみた。
 一つは、そこに私がいるからである。私がその様に感じているからという他に根拠はない。右目で見える映像も左目で見える映像も私に見える映像であることと同じである。
 ただし、その統合が「キス」という単語で語られる事がもう一つの問題として考えられる。

追記3)
「エンターテイメント」については、モンテッソーリ教育 - Wikipediaを連想する。というかドラッカーモンテッソーリ教育を受けている。

追記4)
 議論のルールを示すためには、議論をする小説を書き、議論のコツを併記するしか無い。