【ネタバレあり】今井哲也「ぼくらのよあけ」

 伝統的な日本の熱帯夜に、こんばんは!
 今日は、今井哲也「ぼくらのよあけ」について語っていこうかと思います。
 夏とか小学生とかSF要素とか君はホントこういうのスキだよねえ、とか言われそうですね。



ぼくらのよあけ(1) (アフタヌーンKC)

ぼくらのよあけ(1) (アフタヌーンKC)



 まだ団地はある。お箸でご飯を食べている。小学生はランドセルを背負って学校まで歩いている。
 ロボットは、ある。よくマンガに出てくるような、フレンドリーなお手伝いロボの正統後継者。相変わらず朝は子どもを起こしたり、一緒にゲームをしたりする。人々の生活は意外とあんまり変わっていないような。今と地続きになった未来。
 ちょっとぐらいの進歩なんて気にも留めずに宇宙はやっぱり遠い神秘で、小学生なら宇宙人の存在に憧れている。

 2038年8月21日、SHⅢ・アールヴィル彗星が地球にやってくる!
 宇宙バカな小学4年生、沢渡ゆうまは最近ちょっと不機嫌だった。楽しみにしていたオートボット・ナナコは意外と口うるさい。お父さんお母さんのお手伝いが仕事だから当然なのだけれど、それにしてもあの世界最高の宇宙衛星SHⅢと同じシリーズの人工知能を搭載しているロボット、言ってみればSHⅢの妹のようなモノなのに、あんまりにも趣味が合わない。せっかく28年ぶりにSHⅢ・アールヴィル彗星が地球に接近するってのに、コレじゃ宇宙の話なんて出来やしない。
 でもふとしたキッカケで、ナナコとも宇宙の話ができると分かった。オートボット向けにはSHⅢの観測したデータの一部が公開されている。これを解析すれば、ゆうまにも新しい彗星を見つけることが出来るかもしれない!
 高揚した気分で家に帰る途中、突然ナナコが奇妙な画面を表示し聞いたことのない声で話し始める。ナナコを乗っ取った何者かは、ゆうまを団地の屋上に誘導。そして語り始める。

「私は無人探査船 二月の黎明号 君たちの時間で言えば1万2000年かけてこの星にたどり着いた」
「君たちの言葉で言えば 虹の根 という意味の名を持つ星からきた」
「SHⅢの助けによってこの星に降下した」
「この団地の棟そのものが私となっている」
「頼みがある 私が宇宙に帰るのを手伝ってもらえないだろうか?」



 と、こういうふうに書いてみると、まるで夏休みの子供向けアニメ、ドラえもんの映画やサマーウォーズのようですね。実際このマンガはそれらを心からリスペクトしているであろうことが強烈に伝わってきます。
 ですが、この漫画は決して冒険ものなどではありません。世界の危機もやって来ません。それどころか主人公たちは「小学生が自転車で行ける範囲範囲」から外に出ることすら無く、何かとバトルすることも無いのです。
 なんと、この話の中心は「女の子と仲直りすること」、ホントにこれだけなのです!
 しかし、面白い。
 心地いい既視感に満ち溢れながらも、今までの作品を一つ上書きしたように感じられる。
 それは一体なぜなのでしょうか。

 このマンガの特徴は無人探査機・二月の黎明号の語り口に如実に現れていると思います。
「今の私はナナコを無断で乗っ取っている状態だ、私はこの状態は好ましくない」「話は彼女が私に体を貸すことに同意してからにしよう」「私を再起動させるか、それとも私を破壊するか。判断は君たちに委ねる」

 この口調、誰かを思い出します。そうです、同じアフタヌーンの作品、「寄生獣」のミギーです。
寄生獣」は人間の脳を乗っ取り、人間に偽装した状態で捕食活動として人間狩りを行う寄生獣たちが出現します。そんな中、高校生・泉新一と、新一の体の乗っ取りに失敗した寄生獣・ミギーは生存のためというごくビジネスライクな理由により協力し、人間社会に紛れ込んだ寄生獣たちと戦っていきます。
寄生獣」において、新父とミギーは本来対立した陣営にいるはずの二人なのですが、同じ体に同居することによって身の安全というよりベーシックな次元での利害の一致が生まれます。しかし、新一は人間であり、道徳などの本能からは少々乖離した心理を持っています。この高次元での利害の不一致を対話によって解決しようとする部分が「寄生獣」のクールなところだったように記憶しています。

 二月の黎明号は生物ではありません。そのため自己保存の本能さえありません。目的はただ一つ、何者かに持ち去られたコアを手に入れて記憶を取り戻し、その記憶を母星に持ち帰ることだけです。調査対象である地球の環境を乱さないためには自壊をも辞さないのです。この物語を見返した時、高度なテクノロジーを持ったはずの二月の黎明号が、助けを求める以外にほぼ何も行動を起こしていないことには意外感を覚えるでしょう。

 ココが重要な点です、二月の黎明号は何もしません。何も判断しません。ゆうまたちの行動の責任はすべて本人たちにあるのです。これがこの作品のテーマの一つと言ってよいでしょう。「自分で判断する」ことです。
 ドラえもんでは、のび太たちは簡単に動物を拾い、時にはロボットさえ拾い、世界を別のものにし、歴史を変え、また元に戻します。もちろんそこが面白いところですし、第一、対象年齢の差があります。それに、普通に見ていれば文句なしに面白いものです。ですが、やはりほんの僅かながらも違和感があるのです。「女の子をこんなキケンなことには巻き込めない!」と言いながら、しずかちゃんの家のお風呂を異世界の入り口にするような、ほんの僅かな違和感が。
 それに対しこの作品は、変な言い方をすれば「寄生獣」をジュブナイル化したような、そういう理性が片側を照らしているのです。
 おそらく、その反面として、この作品前半の最大の面白さである、秘密を持ち、大人たちから隠れて行動するコトの面白さが出てくるのです。



 さて、「大人たち」という話題が出てきました。おそらくこの作品を読んだ人ならば「この話はしないの?」とずっと思っていたのではないでしょうか。この作品を一読したときにドラえもんなどの過去の作品との大きな相違を感じるのは「大人たちの立ち位置」でしょう。ドラえもんでは大人たちは全くと言っていいほど干渉してきません。それはもはや一種の伝統として日本のアニメ、漫画に根付いているとすら言っていいのではないでしょうか。
 ところが、この作品では大人達が独特の距離感を持って干渉してきます。
 がっつりネタバレになってしまうのですが、ゆうまの母たち大人世代は28年前既に二月の黎明号に遭遇しています。
(まぁ、一応は第二話の時点で示唆されているから。。。 と言い訳をしておきますw)
 しかし、大人達の態度はあくまで冷静です。佑磨達に感情移入してしていると最初は冷淡に思えるほどかもしれません。特にゆうまの母と二月の黎明号の再会シーンは「えっ、そんな感じでいいの?」と思うような距離感です。
 これにもやはり先ほどの責任というテーマが関わってくるのですが、その責任というテーマが親と子供という関係の中では「引き継ぎ」という問題を生みます。大人達と同じく、大人達もストーリー ーこの場合ゆうま達の選択と行動ー には強くは干渉してきません。ダメなものはダメと言いつつも、自分たちの世代で果たせなかった約束をできる限り子供達の遊び場として解放しています。この距離感がとても心地よいのです。
 
 この漫画は全二巻、十話のエピソードから成るのですが、本当に巧妙に構成されていると思います。
 この話の主要期間は2038年の7月13日から8月21日までなのですが、この期間の選び方が物語の装置として非常に有効に機能しています。
 最大のポイントは、夏休み前の期間、そして夏休みが始まる期間を含んでいることです。全十話のうち、ちょうど巻を跨ぐぐらいのタイミングで夏休みを迎えます。ちなみに私がこの物語で一番好きなのはこの巻を跨ぐ5話、6話だったりします。
 この作品にとって「学校に行っている期間」があることはとても意味のあることです。なぜならば、この作品のもう一つのテーマは「人間関係」だからです。
 最初に、この作品の中心は「女の子と仲直りすること」だと言いました。ちょっとここから先はどうか自分で確認していただきたいのですけれど、二月の黎明号のコアを所持している女の子はとある事情で主人公達とはかなり気まずい関係にあります。しかしコアは手に入れなければなりません。
 そんなわけで女の子の跡をつけたりするのですが、その子の父親にあっさり見つかってしまいます。ある程度事情を話してコアを返してもらおうとするのですが、父親はあっさりこう言い放ちます。
「いいか?コアが欲しかったら自分達の力だけで仲直りしてみろ」「ちゃんと一対一で話し合って、いいってなるまでコアはお預けだ」
 どこまでも「ちゃんと話し合うこと」を主人公達に課しているのです。
 もちろん事情が事情ですから、それはただ単にほほ笑ましいだけではないのですが。

 

 あえて難点を挙げるとしたら、エンディングでしょうか。ちょっとあっさりし過ぎていたかなと思います。「友達」はその組み合わせだけじゃないでしょう?と思ってしまいます。もう少しノスタルジーが欲しかったと個人的には思ってしまいます。5話目の空気が好きなのですが、もう少しあの空気が生きてきたらと想像してしまいます。未来と宇宙と何かしらの不安を見上げつつ、夕焼けに染まっているあの感じが欲しかった。
 ずっと「ありそうな未来」を描いてきたところから、技術的特異点をすぎた未来に飛んでしまったのも惜しい。

 しかしまあ近年まれに見る名作であることは間違いありません。絵柄もかわいいですし、非常におすすめです。全二巻ですからおサイフにも優しい!w
 ぜひともぜひとも。