安冨歩「ハラスメントは連鎖する」

 今回は、『原発危機と「東大話法」』について考える前段階として、「ハラスメントは連鎖する」の概要を述べる。
 私はこの本を2,3回読んだ。しかも赤ペンで線を引きながら。1冊しか読んでいないクセと笑われるかもしれないが、いわば「座右の書」としていた。
 
 私としては、「東大話法」は「ハラスメントは連鎖する」を先に読んでいなければ著者の意図を誤解しやすいのではないかと感じた。もちろんその「誤解」は、反対側から見れば不可解なもので、なにか変なものに頭をやられているのではないかと見えるだろう。とはいえ他者の世界は全て想像を通したものであり、実際には「こちら側」を記述することしかできない。私の世界での順番の通り、「東大話法」について考える前段階として「ハラスメントは連鎖する」について概要を述べる。
 
 「ハラスメントは連鎖する」はコミュニケーション論という分野に入る。しかし、多くのコミュニケーション論は、いかに他者とウマいことやっていくか(あるいは、上手いこと利用していくか)のハウツー本であるのに対し、この本は他者とウマいことやっていくこと自体に疑問を差し挟む。このような「他者とウマいことやっていかないといけない」という前提を疑ってかかることは当然のようでありながら、そのような疑問を提示する本というのは驚くほど少ない。さて、このような疑問の提示を(コミュニケーションを通じて)封じるもの、それがタイトルの「ハラスメント」である。
 
 準備段階として、第1章でコミュニケーションのメカニズムが示される。人間同士がコミュニケーションを取るには、何らかの意味を持った「メッセージ」をやり取りする(メッセージは必ずしも言葉に限らない)。強調されるのは、メッセージは単体では意味を持たず、状況により意味が変化することである。言語であれば単語の相互作用によって意味が決まり、ソレが人に使われることで刻一刻と意味が構成、再構成されてゆく。
 ゲームに例えれば、コマ単体では意味を持たず、1.他のコマ、将棋盤との位置関係 2.将棋のルール 3.相手が同じルールを共有していること が、ある一手がゲーム内で意味を持つための条件である。
 このような、メッセージに対して意味を与えるものを「コンテキスト」と呼ぶ。
 
 ゲームであれば、上記のようなものでコンテキストが決まるが、コミュニケーション・ゲームにおいてはどうなるだろうか。すなわち何がコミュニケーションの意味を定めるだろうか。それが誰によって、またどのように定められるべきか、というのが「ハラスメントは連鎖する」の主題となっている。
 
 上記、言語を使う中で言葉の意味が構成されていく、という点に注意して欲しい。なぜ、言葉の意味が変化してゆくか。それは人間がお互いに「学習」を行なっているからである。言葉や身振りの意味は文化や習慣がそれぞれ違う。最初はそれらの習慣を同じと思い込んで話しかけるが、コミュニケーションの中で、習慣の違いを理解してゆき、同時に習慣を共有してゆく。
 
 ものすごく適当な例だが、「暑いですね」「はい、暑いですね」ならば相手が自分と同じ事を思っていると確認できる。「暑いですね」「いや、今日は涼しいですよ」ならば感覚の違っているという認識を共有できる。
 では、「暑いですね」「いや、昨日と比べるとまだマシですよ」ならどうだろう。ここで両者の言葉遣いには微妙な違いがある。前者は単純に今の感覚を表現する言葉として(あと、挨拶がわりとして)「暑い」という言葉を使っているが、後者は「暑さ」は昨日と比較して考えるものである。このとき、「たしかに昨日と比べると暑いですね」といけばコミュニケーション成立である。「いや、昨日は昨日でしょ」と返せば、多分ケンカになる。コミュニケーション失敗。
 
 ハラスメントは、コミュニケーションの異常状態である。それは片方(Aとする)が学習を止め「学習しているフリ」をし、もう片方(Bとする)が一方的に学習を求められることから始まる。Aは学習しているフリをしながら、攻撃的なメッセージを送る。
 コミュニケーションは相手がどのような人間が学習してゆく過程であるといったが、この状態になると、BはAがどのような人間か分からず、安定的なコミュニケーションを取ることができなくなってゆく。やがて、Bは考えても無駄だと悟り、思考状態に陥る。Bが思考停止状態に陥れば、さらにAは自分に都合の良いメッセージを送り、Bを自分の言うことを聞く人間へと変えてゆく。
 このような攻撃が「ハラスメント」である。ハラスメントをするものをハラッサー、ハラスメントを受けるものをハラッシーとよぶ。当然、ひとりの人間がハラッシーかつハラッサーという状況も考えられる。
 
 ハラスメントは「(罰をともなう)命令」と「その命令の解釈(ラベル付け)」という2つのメッセージから成り立つ。前者は「こうしなさい、ああしてはダメ」というような命令であり、後者は「これはあなたのために言っている」というようなものである。
 ハラッシーは後者の解釈を採用しなければ罰される。罰を受けたときに「痛い」といえば更に罰されるので、「痛い」と言わないようになってゆく、そしていつの間にか「痛い」という自分自身の感覚を認めなくなってゆく。この状態が呪縛された状態である。
 この状態にあると、人は自分の感覚を信じられないため、判断がぐらつき、周囲に流されるのみとなる。そして、ハラッシーが増えるほどに「逆らえない空気」が醸成されてゆく。
 「ハラスメントは連鎖する」というタイトルにもあるように、ハラッシーはハラッサー化されてゆきやすいということである。
 
 そして、単にハラッサーを排除してメデタシメデタシとするのでなく、ハラスメントの連鎖の仕組みを解き明かすことで、そのような「逆らえない空気」を払拭してゆきたい、というのが「ハラスメントは連鎖する」の目指すものであった。
 そして、その対策として著者が主張するのが、「自分自身の感覚を信じること」なのである。
 
 もうひとつ、この「自分の感覚のモニタリング」過程において、他者はいったい何ができるのか、というのがこの本のもう一つの論点である。
 ただし、これは次回に持ち越そうと思う。次回書くはずの「議論のルール」というテーマとの関連性が深いためである。

 

ハラスメントは連鎖する 「しつけ」「教育」という呪縛 (光文社新書)

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